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翁琪忠氏作

北海道・黒竜江省友好提携25周年を記念し、札幌在住の書道家、翁琪忠氏に書いていただいたものです。

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記念事業 北海道で開催された主な日中国交正常化40周年記念事業

許金平中国駐札幌総領事講演会

「記念講演要旨」

講演内容は、新中国成立(1949年)から日中国交正常化までの貿易を中心とする日中民間交流の歩みであり、具体的な民間交流の歴史を振り返り、国交正常化(1972 年)までの先人の業績を紹介することが中心であった。詳細は以下の通り。

新中国成立以来、日中交流は「民を以て官を促す」という方針の下で行われてきたが、これは他国との交流には無い大きな特徴となっている。また、毛沢東、周恩来ら第一世代の「民間交流の流れを作ってから、自然に国交回復へと結び付けていく」との方針に基づくものでもある。日中の民間交流は主に貿易面での交流からスタートした。その大きなきっかけとなったのが、1952年3月に、モスクワの国際会議に出席していた高良とみ・帆足計・宮腰喜助の3名の国会議員を中国に招待したことである。周恩来首相は彼らと会談して、日中民間貿易協定を調印、日中の年間貿易額を3000万ボンドと決めた。今から見るとこの数字はわずかな額だが、日中民間交流にとっては大きな第一歩となった。ところが、1957年に成立した岸信介内閣による政経分離、親米反中政策と、翌58年に起こった「長崎国旗事件」により、対日輸出が停止し、漁業協定も延期になるなど、民間貿易は再び頓挫することになった。周恩来首相は「対中敵視政策をとらない、二つの中国を作り出さない、国交正常化を妨害しない」という政治三原則を表明して政経不可分の原則を打ち出す一方、「民を以て官を促す」との観点から民間交流を続行させた。次の池田隼人内閣になると、1962年9月に松村謙三氏が訪中して周恩来首相と会見し、周首相が台湾問題の中国における重要性と早期の国交回復の実現について松村氏に話し、国交回復には長年のたゆまぬ努力を続けなければ実現できない、少しずつ国交正常化まで結び付けていく「蓄積方式(中国では漸進方式)」をとることで一致した。そして、同年11月、高碕達之介氏が42名の代表団を率いて訪中し、高碕氏と廖承志氏との間で「日中総合貿易に関する覚書」に調印し、LT貿易が開始することとなった。

日中友好に関しては、1963年10月4日に郭沫若氏を名誉会長、廖承志氏を会長とする中日友好協会が設立され、日中友好がさらなる発展をとげる大きなきっかけとなった。

1964年4月に松村氏が3度目の訪中を果たし、19日に高碕達之介事務所と廖承志事務所の相互設置、代表者、常駐記者の相互派遣が決定した。

その後、日本では佐藤栄作内閣の成立、中国では文化大革命があり、日中民間貿易は再び減少することとなった。

1972年7月に田中角栄内閣が設立、「日中国交回復の実現を急ぐ」と表明したことにより、中国側も歓迎を表明、さらにイエメン代表団の訪中時に、田中首相の早期の訪中を歓迎するとコメントした。そして、9月25日に田中首相が北京を訪問。国交正常化に向けて、1、歴史問題、2、戦争賠償の問題、3、台湾問題、という3つの問題があったが、双方の協議により、9月29日の「共同声明」調印を実現、声明の中で、日中両国の不正常な状態に終止符を打ち、日本は、中華人民共和国が中国の唯一の合法政府であり、台湾は中華人民共和国の不可分の領土の一部であるとの中国政府の立場を十分に理解し、尊重すると表明、ここにようやく両国の関係正常化が実現することとなった。

最後に許総領事は、1972年の国交正常化から今年で40年を迎え、日中は成熟した関係の段階に入った、日中は隣同士であるから、何か問題があった時には暴力ではなく、互いに話し合いで解決すべきであると述べ、日中双方は互いの立場を尊重することで、両国の平和・友好・社会の発展に結びついていくだろうと期待を示した。

以上

(高瀬 札幌大学孔子学院副学院長 記)

講師 許金平中国駐札幌総領事
演題 中日民間交流
日時 2012年3月17日13:30~14:30
場所 札幌大学サテライトキャンパス
主催 北海道日中友好協会